「モスキート」は、服を穿ち、ケツを、刺す。
蚊が私の左尻(サケツ)を刺した。
- 左尻(サケツ)とは・・・
- 左尻(サケツ)とは、左の尻。つまり人間でいうところの、尻の片割れのうち、一方、厳密には左っ側である。両腕でいうところの左腕、両脚でいうところの左脚。それのケツバージョンである。私から見て左である。あなたからみて右である。でもこれは見方によっては変わってくるから上手く伝えづらい。左と言った時の、あなたにとっての左、それが左尻(サケツ)である。しかしこの際左とか右がどちらなのかは関係ない話なのかもしれない。もっと漠然としたものとしての左尻(サケツ)でいいのかもしれない。
左尻(サケツ)、蚊は左尻(サケツ)を刺したのだ。二箇所刺した。しかも痒くした、二箇所とも。痒いって、本当に。掻くし、この場合私は「ケツを搔いている人」になるのだ。本来はそこに(蚊に刺されたために)と修飾される。でも私を見る人にとっては否応なく「ケツを掻いている人」なのだ。「ニュートラルでケツを掻く人」なのだ。この差は大きい。「ニュートラルでケツを掻いている人間」と「蚊に刺されたためにケツを掻いている人間」、品格が全く持って異なる。後者の方が凛としている。素敵。蚊に刺されてケツを掻く人間素敵。掻かない方が良いっちゃいいんだけど、そりゃ。でもいまそんな話してないよね???してた??してたか??文面見返しても、そんなこと書いてないけど、もしかしたら心の中とかでつぶやいていたかもしれない...。ごめんなさい....https://www.gomennnasai.jp
「なぜ刺せた?」である。なぜ刺せた?左尻(サケツ)を。まじで。令和だよ、今、現代。服、着てる着てる。モリモリよ、服。ハーフパンツにアンダーウェア。蚊、ケツ、刺せません。蚊!!ケツ!!刺せません!!!オラ!!!!!オラ!!!あ、すみません、すみません....。いえ、その誰もいないと思って...。ちょっと気持ちよくなっちゃって、ハイ...すみません、はい、はい、あ、いえ、お酒は飲んでないです....。いや本当です。あ、検査とかはちょっと....、いや、急いでるので、本当に、はい、いや本当に。本当だって!!もういいでしょ!!!任意ですよね?!?!任意ですもんね?!?!?!動画撮りますよ!!!!!はい!!!!撮ってま~す。撮ってま~~~~~す。警察は民事に介入できませんっ。警察は民事に介入できませんっ。はい、今、おまわりさんに、職質されてます、私何もしてません、無実ですっ。無実です!!!無実です!!!!!!!あ!!!痛い!!!!痛い!!!!!ちょ、まじで!!!!!!!!!!!!!!
はい。
昔の人じゃないんだよ。ケツ丸出しじゃないの。服着てんの。なんで刺されるのか分からんの。狩りと木の実で生活してた時代とかじゃないんだよ、今、令和、現代。上着だけ頑丈な毛皮着て、下モロモロの素っ裸の時代じゃないんだよ。「どう考えてもそれでマンモス倒せないだろ」みたいな、ぼっこに尖った石括りつけた槍っこも持ってないんだよ。あるいは江戸時代。足軽とか。そんなに例あげなくてもいいくらいのやつだよねこれ。「そういえば教科書に載ってた足軽、ケツ丸出しだったなあ」ってこれ書きながら思い出したから一応書くけど。そもそも昔の人、みんなケツ丸出しじゃないか?そんなことない?どっち?丸出し??丸出さず??丸出し??丸出さず??冷静に考えてズボン的なもの履いてたような気もするけど、私的にはケツ丸出しが優勢なんだけど。「昔の人はケツ丸出し」っていう前提から始まってるからそう思っちゃってるだけ?どっち??
みんなも考えてみて。なんとなくケツ丸出しの感じしない?してきた?どっち???教えて??聞こえん、聞こえん。言葉、聞こえん。言ってくれんと分からん。「言ってくれんと分からんよ。」カップルの喧嘩で出てきそうなフレーズ言っちゃった。もういいよ。
とにかくケツを刺した、蚊は、私の、二箇所、痒くなるように。
貫くのか?現代の蚊は。ズボンを、パンツを、穿ち、ケツを刺すのか?モダンの蚊は。それは「蚊」というよりも「モスキート」って感じだろ。伝わってくれないか。意味は全く一緒だろうが、質感が違うというか。「人造人間」と「サイボーグ」って、「サイボーグ」の方が強そうじゃない?それ!!!それ!!!!!!!
「モスキート」は服を穿ち、ケツを刺す、のか?
「モスキート」は服を穿ち、ケツを刺すのか?
「モスキート」は、服を穿ち、ケツを、刺す。
「モスキート」は、服を穿ち、ケツを、刺す。
「モスキート」は、服を穿ち、ケツを、刺す。
怖いね~~~~~~~~~~。
追記:書き終わった後にケツを掻きながら昨晩のことをぼんやり考えていたのだが、
そういえば昨日私、ケツ丸出しで寝ていた。ケツ、私ケツ、ケツ丸出しで、ケツ、寝てた。私ケツ丸出しで寝てた寝てたねてた。ケツ丸出しで。
「モスキート」は、服を穿ち、ケツを、刺す。
ケツ丸出しで寝ていただけ。ケツ丸出しで寝ていたところを、普通に刺されただけ。蚊は目の前にケツがあったから、普通に刺しただけ。マニュアル通りに、蚊界の。「蚊界」って、ギリギリ言いにくい。でも言いにくいって言うほど言いにくいわけでもないからあんまり言いたくない。言っちゃった。
ケツ丸出しで寝ていただけ。ケツ丸出しだったのかよ、私。なんでだよ。なんでケツ丸出しなんだよ。なぜ?なぜ?なぜケツ丸出し?どういうわけ?探偵ナイトスクープとかに聞いてもいいのか?
「なんでケツ丸出しだったんですか?」
知らねえよ。なんでケツ丸出しなんだよ。昔の人じゃん。木の実とってイノシシ狩ってた頃の人じゃん。上着に極厚の毛皮着て、着るだけ着て、ケツ丸出しの昔の人じゃん。
なんなんだよ。
なんなんだよ....。
まだ見ぬ現象、緑色のネコに関するシュプレヒコール1(別題:私は知らないことについてとやかく言いたくはないのだが3)
水色のイノシシを見た。多分嘘の量が増えてきていて、癇癪をおこす未熟者も増えた。タイプライターで電信柱に移った万華鏡と、その倫理観について五万字のレポートを作った。
おはようございます。ブログを始めます。冒頭におかしな文章を書けば随分な人間が「こいつおかしいね」と思う。あまりにも単純な世の中に生まれたもんですね。平気!平気マン。寿命は30年くらい?聞いてる?
当ブログではシングルコイルピックアップとハムバッカーピックアップは、どちらが大喜利における登場回数が多いのかについて数十週のリサーチと423個にわたる記事で、深い考察を繰り広げてきました。
で!す!が!ですがですよ。
知らない街で知らない人とすれ違うのは必然と言ってもいいんですね。これかなり面白い見解です。ここは学会です。
おはようございます。金曜日の木曜日です。上澄みの文章を挙げればみんな変なかをでこちらを見ている。実際は誰よりも真面目、生真面目。三回転半でコンタクトレンズは落、ちる。
しらばっくれるなよ。
黄色い教授。
また変わらない一日なんてのはJPOPの常套句だったりする。みんな同じこと歌っているね。後攻、奪取。
すみませんで済むなら警察はいらないんだよ。警察で済むなら規律はいらないんだよ。社会とワタクシで済むなら、生活のしなやかさとチョコムースの甘さは大して(実際には微々たる量が包含されているのだが、やはり言葉の綾である。寿司。)関係ない。文章、正しい。やはりワタクシ、まじめ。規則通りに。
あ
ああ
え
あ
三十二
「きっと勝つ」でキットカットなら、商品名は「頑張れ受験生」に変更するべきである。私は広報担当の歯科医師についてのおびただしい情報に塗れて脳みそのある血管、それについては私自身名称を知っているわけでなく、やはり便宜的に”ある”とするしかないのだが、、、爆ぜる。
正直な話をすると、正直な話はできない。
おはようございます。ブログを始めます。
追記:追記しません。
追記2:追記しません。
追記3:追記します!!
「おい!!」
「追記するらしいぞ!!」
週刊誌がやってきた!あ、概念?概念がくるの?”週刊誌”という?
概念なら、いいか~~~~~~~~~~~~~。
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切り取り線。切り取ってですね、これより下をはがきに張り付けて、600円分の切手を張り付けてフジテレビなんかに送ってみてください。送ってきた人!!!はい。
楽しいね。別に心が変になっているわけでは全くなくて、明日のお昼ご飯のこととか考えている。イルカの大群。うおっ、。意外とざらざらしてんだな。
でもやはりこのように頭に浮かんだ、芋洋館(芋をモチーフにしたテーマパーク)、言葉をそのまま排出するのは気持ちよい。駅前で素っ裸に近い。
ピクサーの映画を観たことがないんですね。デッドオアアライブー生きるか、死ぬか、っちょ!熱い!フーフーしないと!お粥熱いし!全部パーになる!!!!ー
「博士.....」
「ああ........」
「世界の、均衡が.........」
ここで30分間のドラムロール。
もうずっとこのままだろ。
と言って席を立つ人もいます。
シュ
ー
ー
ー
ー
ー
ー
ー
ー
ーー。
これはモールス信号で、「生きる価値のない明日。でも死ぬ価値も無いね。」を意味している。##(ハッシュタグハッシュタグ)
つまらないユーモア、出ましたね。先急ぐな!死ぬ!死ぬ!
急に大きな声を出さないで知らない人が言ったあの言葉について「しょーもな」しょうもないらしい!俺はしょうもないらしい!
ショーもない?ショーもないなのか?かわいそうに、あのおじさん。地獄に落ちろ。
嘘です別に思っていない。生きていれば辛い事しかないもんね。死後の世界から高みの見物をしています。冷静に考えて死んだら上に行くってちょっと面白いな。死んだ時点で負けだよ。ゲーム、オーバー。試合はとっくのとうに終わっちまっている。なら、俺たちが見下すべきなんだよ。何死んだくせにお前はるか上から偉そうにこっち見下ろしてんだ。
これが私の死なない理由。アナザースカイ。私のアナザースカイはよくわからん北欧の街にあるのではない。このちんけな部屋。親善試合、モスラvs武豊。うわー、予算下りたのか下りなかったのかよくわかんないなこれ。
エキシビションも行くとこまでいったな。次困るぞ、これ。ハードル上がって。
はい、YouTuberにはなりません。あまりグリーン。
あんドーナツおいしい
あんドーナツおいしい
よい歌詞ってなんだろう
安心な僕らは旅に出ようぜ 思い切り泣いたり笑ったりしようぜ
僕らお互い弱虫すぎて 踏み込めないまま朝を迎える
くるり『ばらの花』の一節。私はこの歌詞が大好きだ。
大学入りたての頃、仲良くなったばかりの同級生と遊んだ時とかこの歌詞を思い出して、「ああ、よい」と思ったりした。
人との仲良し度って、曲線的にグーーーンと上がっていくわけではなくて、忘却曲線みたいにあるタイミングで一気に仲良くなって、じわじわと関係が続く、そしてまた一気に仲良くなるタイミングがあって、それを繰り返していく、みたいな認識を持っている。
その「仲良くなるタイミング」って何か、といったらそれはお互いに本心で話す瞬間だと思う。で!も!でもよ、「僕らお互い弱虫すぎて 踏み込めないまま朝を迎える」わけなんです。私達はいつも「安心」な状態で、行こうと思えば旅にも出れる、思い切り泣いたり笑ったりもできる。で!!も!!でもよ!「僕らお互い弱虫すぎて 踏み込めないまま朝を迎える」なの!!!!
私と、あなた(概念)のことみたいじゃないか。くるりすごいよ~~。
引き延ばしてきた来たせいで、水色になった青い春を、機材を、旅情を、楽団を乗せて走る拘束の飢え
バズマザーズ『ロックンロールイズレッド』の一節。これもすごくよいと思う。
音源を聴いていると前の文脈的に「拘束の飢え」ではなくて「高速の上」だ。歌詞を見てあらびっくり現象が起こる。彼らの何気なさ、アンニュイな雰囲気の影に、誰にも見られないような形で切迫した現実が確かに脈を打っている。歌詞のリアリティが一気に増す。すごいね、山田亮一。
小さな雪の粒も積み重なれば 景色を変えるのは不思議ですね
どうしようもない日も積み重なれば 年月となるのは残酷ですね
amazarasi『クリスマス』の一節。いつか先輩に教えてもらった曲、これも素晴らしいと思う。私達の世界の多面性(多層性?)を鋭く指摘している。
私は上の3つを「よい」歌詞と思わざるを得ない。例え「よい」という感情を「よくない」という感情で塗りつぶしたとしても、それを俯瞰する「よい」がある。そのいたちごっこ。根源的な「よい」を感じているといえる。
では、なぜ「よい」のだろう。
みたいなことをね、去年の12月に書いていたみたいだね。下書きのまま押し入れに入れられているのを、先ほど大掃除の際に見つけた次第だ。「では、なぜ『よい』のだろう」だってさ。思わせぶりな発問だし、どうやら問いの主はその答えを分かっているみたいだ。
いや、わからんわからん。
知らん知らん。
分からんから下書きのまま保存されてんだろ。今となってもわかんないよ。テキトーなこと言ってんじゃないよ。
確かに今見ても上記3つの歌詞はとても良いと思ってる。でもそれぞれの良さは独立している。冒頭の記述は、斜に構えて衒った共通性を見出そうとして破綻したタイプである、きっと。
でも、もしかしたら何か繋がっているところがあるのかもしれない。そんな淡い期待を捨てきれない。「ここまでならどの良さにも存在しているよね」みたいな共通了解があるかもしれない。
だからもう少しだけ、私が良いと思う一節を載せてみようと思う。
夜のGOLD TRAIN
思い出したくない駅も増え
全部本当にしてみたいことがあります
リーガルリリー『GOLD TRAIN』のサビ。「思い出したくない駅も増え」というところが特に好き。床に就くと嫌でも浮かぶ、寄せては返す恥ずかしい記憶や悔しい記憶、悲しい思い出、やるせない過去、思い出したくない駅は増え続ける。各駅停車で、決まった時間に、決まったルートで、汽車は停まる。それでも私達の汽車は黄金色に輝いている。
書きながら泣きそうになっちゃった。もちろん私的な解釈にすぎないけど、そんなもんでしょ、表現って。そんなもんだよね?
世界は丸いというけれど
四角い部屋の中ひとりよ
羊文学『涙の行方』
これすごい。”世界の丸さ”を出して、その対比の形で”四角い部屋”を持ってくる。そして世界という多くの生物が存在する惑星にいるのに、四角い部屋の中で”ひとり”ときたもんだ。急速な場面転換と、聴き手の引き込み方が素晴らしい。
とても大きなものから、一気に小さなものへ。それを俯瞰するもっと大きな”私”という構図があまりにも見事である。
やはり私的な解釈に過ぎないのだが。
理由もないのに何だか悲しい
泣けやしないから 余計に救いがない
ASIAN KUNG-FU GENERATION『転がる岩君に朝が降る』
はじめてこの歌詞を見た時に心を強く掴まれた。「そうだよ!!そうなんだよ!!」と深く、何度も、湿った部屋でうなずいてしまった。
バンドを組んでいるんだ すごくいいバンドなんだ
みんなに聴いて欲しいんだ バンドを組んでいるんだ
なんでいいのかは説明できないけど、共感してもらえるだろうか。
すごく簡単な言葉、簡単な表現、でも良い。
傷つけてくれてサンキュー くるしくて息を吸った
吸った息を吐いた 心がひとつふたつうねった
赤い公園『ジャンキー』
初めて聴いた時叫んでしまった。とてもよくて。なんでいいのかはいまいち分からない。でも「傷つけてくれてサンキュー」並みにカッコイイ言葉ってそうそう無い。
まだまだ書けてしまうのでとりあえずここらへんで。
どうだろう、共通しているところあるだろうか。書き始めたときは「まあ書いてりゃなんか分かるんじゃね」くらいのテンションだった。というか生活においてそういうことって往々にしてある。今回はどうだろう。
すこし、少しだけ感じたことを言う。
私が”よい”と思った歌詞は、どれも”引力”を持っているような気がする。
「お」とか「うお」とかなってしまうような、思わずうなってしまうような。
なんで引力を持っているのだろう。それはどれも私の生活にぴったりと(じんわりと?)根差した言葉であって、歌詞と生活が溶け込みそうになっているからなのかもしれない。生活と言葉が調和し、何かヤバいケミカルな物質を生み出す。それが引力であるように感じる。
なんとなくそれらしいところにたどり着いたような、着いていないような。きっとこれからも、おそらく音楽を避けなければ一生考えることになるだろう。
よい歌詞ってなんだろう。
People In The Boxになりたいのかもしれない。
最近People In The Boxをよく聴く、どういうわけだか。前までは女々しい声で何やら難しいことを何やら難しいメロディに乗せている変態バンド、ぐらいに思っていただけなのに。もちろん彼らの音楽性を否定している気は微塵もなく、その時から好きな楽曲もいくつかあった、というか結構好きだった。ただ今ほど聴いているわけでも無かった。
話を変える。
少し前から作詞作曲を始めた。ゆくゆくはライブハウスで演奏することを目標にして。だから毎日色々なコード進行を考えてみて、詰まって、ネットで作曲理論を調べてみたりして。ダイアトニックだかアパマンショップだかアンパンマンミュージアムだか知らないが、頑張っているわけである。
そんな中最近少し良い曲ができた。私にしては素敵な歌詞で、私にしては素敵な進行である。すっかり自信がついた。
そう思っているうちに自宅に先輩がお邪魔してきた。先輩とは週一くらいの頻度で二人でギターを弾き、音作りをし、最近聴いたバンドについて話す仲である。ただ自分が作った曲を「ぜひ!聴いて!ください!」といえる程私は肝が据わっていない。そもそもまだ誰にも聴かせていない曲である。多少の(多が強い)気恥ずかしさもある。しかしどうしてもこの良い曲を聴いてもらいたい、せめてコード進行だけでも。
というわけで私はアーティスト名不明のコード進行をやや得意げにストロークして見せた。
先輩は何となく神妙な面持ちになったのちに
「なんかこれ聴いたことあるな」
と一言。
「何かのアウトロだった気がする」
と追撃。
頭を冷やすために(?)トイレに行ったのち
「分かりました、People In The Box」
と私の息の根を止める一撃。
進行だけみると、まるまるこの曲のアウトロだった。
しかもこっちの方が断然カッコイイ。断然過ぎる。ふざけんな。
私の曲クソダサすぎ。ゲボカスの沼地。堆肥とかも入ってる。
さらにこの曲はこれまで聴いたことのないものだった。知っている曲のメロディと似ていたら「あぁ、知らないうちに意識してたんだなあ」と身を守れる。以前「これ、いいなあ」と思ったコード進行が一寸の狂いもなく『ソラニン』だった時は笑ってしまった。それくらいのダメージで済む。しかしこれは知らない曲だったのだ。もしかしたらこれからどれほどカッコイイ音楽を作っても、知らないところで大被りしているかもしれない、と戦慄すらした。
話を戻す。
その件以来、もしかしたら私はPITBに、波多野裕文なりたいのかもしれない、という気持ちが強まっている。そう思うほど彼らの楽曲がかっこよく見えてくる。女々しい声のボーカルも、バンドの音色や世界観とあまりにもマッチしている。何やら難しい言葉もひも解いていけば随分とかっこいい。
ちょっとずるい。かなりずるい。相当良いバンドだ。
前の記事で「音楽はどこか遠くへ向かっているんだ!」なんてぬかしたが、音楽はPITBに向かっているのかもしれない。なんだそれ。
話を続ける。
そんなわけでPITBのアルバムをよく聴く。
さっきまで聴いていたのは(おそらく)ファーストアルバムである『Frog Queen』
その中で最も印象に残ったのは最後の曲、「一度だけ」。親近効果とかではなく。
(既に二つの動画のリンクを張っているが、どちらも公式から投稿されるものではなさそうだ。大丈夫かこれ。真っ当な人は各種サブスク等で聴いてください。)
「あれ?これ、すげーノイズがしてますけど」というひとり言から始まるカントリー調のイントロ。そしてちゃんと「ノイズがして」いるLo-Fiなサウンド。
この始まり方がなぜか私はとても好きで、聴いた瞬間「ウォッ」と言ってしまった。なぜ好きなのかは、今は分からない。
彼らの楽曲にはこの「なぜかとても好き」という感覚を持ちやすい。理屈とか抜きにした、本能のふぁぼ。バンドをやるならこうあるべきだと思った理想形を、彼らは私の前にただそこにいるという形で、はっきりと示している。
私はPeople In The Boxになりたいのかもしれない。
音楽はどこに向かっているのだろうか
どっこいこんばんは。時間は夜。だから「どっこいこんばんは」。
過去の記事を見て「私はこんなことを...(考えていたのか)」と思うことがしばしばある。記事に限らず、ツイートとか、ルーズリーフのはしがきとか。そういう経験を何度もしていると、私の思想や価値観が成長している、かどうかは分からないけど確実に変化していることを実感する。だから「どっこいこんばんは」もいつかの私の為の、いまの句読点なのである。
急ハンドルを切って今日のテーマに向かうが、
「音楽のゴールって何だろうね」
プランクトンからガーーーって進化して私達今人間だ。
おそらく私達がサルぐらいの頃から、切り株とか枝とか木の実とかで音楽を始めていたに違いない。上等でいい音が鳴る木を「ギブソン」と言っていたのかもしれない。まあそこら辺をスタート地点とする。
そしてさっきと同じ要領で音楽もガーーーーーって進化してきて私達今の音楽を聴いている。確実に進化してきていると思う。時折退化もしているだろうが、音楽は絶えず変化し続けている。音楽のゴールって何だろうか。というよりも、
「音楽はどこに向かっているのだろうか」
が適切なような気がしてきた。
現時点での私の考えを述べるなら。
答えは「”どこか遠くへ”向かっている」である。
答えになっていないと思った人はいるだろうか。「どこに向かっているのか聞いているのに、『どこか遠くへ』って...。そのどこか遠くがどこなのかきいてんだわ!でっかいおはぎで窒息しろ!アルパカの背で寿命を迎えろ!!」 性根が優しい人がいるね。ありがたいことです。
だから私はダブルコーテーションを付けたわけだ。
音楽は”どこか遠くへ”というゴールに向かっているのだ、と私は思う。
例えば皆さんにとっての最高の音楽を挙げてみて(私ならハヌマーン、ナンバーガール、きのこ帝国等)、それを超超大好きになった瞬間を思い出して欲しいのだ。
自分の意識がどこか知らない場所へと遠のいて、精神が高次に向かう経験をしなかっただろうか。
もっとくだけた言い方をするなら、「脳汁ドッバーン出て、キンキンにイキそうになる」経験をしなかっただろうか。
自分と外界の境界が分からなくなるような感覚。自分と音楽が一体になっているような感覚。
”どこか遠くへ”とはその経験のことを指しているのだ。
私達は生きながら様々な音楽を聴いて、その度に様々な感動を持つ。その感動の最上級が「どこか遠くへ」という経験ではないだろうか。というかそうだろう。最高なんだもん。
そして私達はその経験を忘れられないから新たなアーティストを開拓していくのではないだろうか。というかそうだろう。もっと最高が欲しいんだもん。
さらに音楽を演る人々は、その経験を自ら引き起こすことを自身の音楽活動の本質としてはいないだろうか。というかそうだろう。だって最高なんだもん。
私達は「どこか遠くへ」と目指し、彷徨う。それも「どこか遠くへ」の断片ではなく、より本質的な「どこか遠くへ」
すなわち「どこか遠くへ」の中にある「どこか遠くへ」
ロジックがゴミクソだが、私の言いたいことを分かってもらえただろうか。
音楽は”どこか遠くへ”向かっている
純度100の”どこか遠くへ”
書きながら思ったのだが、なんかこれってドラッグ使用した時の症状に似ている。
私の定義をもっとフランクにするなら
「音楽は覚せい剤に向かっている」
だろう。
またね。
『1984』を聴いて、見据えるもの
親たちが追いかけた白人たちが ロックスターを追い掛けた か弱い僕もきっと その後に続いたんだ
作詞者の小山田壮平は1984年生まれ。だからこの歌は彼自身の懐古的な要素を持っていると推測できる。というか、それが妥当だろう。
面倒くさいからここで現代日本を振り返るようなことはしたくないが、1984年、文化や価値観や生き方がぐちゃぐちゃにかき回され、何かある形へと落ち着こうと崩壊と形成を繰り返す時代。きっと。ずいぶん無責任なことを言っている気がする。
とりあえずそんな時代に彼が生まれたとする。
彼の親たちが学生の頃熱狂したのは海外スター、「白人たち」である。
そしてそんな「白人たち」が追いかけたのは「ロックスター」である。
その憧れの系譜の中に生まれた1984年の「僕」も、か弱いながらもその後に続いていく。
「ロックスター」から「白人たち」、「白人たち」から「親たち」、「親たち」から「か弱い僕」へ。そしてこの流れは続いていく。
文字にして43字、たったの8小節でこれほど厚い時間のイメージを生み出せるのかと、聴くたびに感動する。そしてこの歌詞は「僕」から見て過去、さらに過去、そして今、つづいて未来、というように聴き手の時空が息切れするほど移動するからとてもユニークだ。
1984年の彼らが引き継いだ流れは当然、私にもつながる。そんな私は何を追い掛けるのだろうか。