北極星に行こうとしている

北極星に行こうとしています。北極星に行こうとしているわけでは無いです。

内向的なクソ感情の受け皿

「雨粒にして降らすまででもないこの感情を 持て余した僕の空はずっと霧雨」

 

日食なつこ『vapor』の一節

ここ最近の私の脆弱なメルヘンメンタル(通称:サンリオ)を救ってくれる歌詞の一つ。

 

私達が流す雨やら汗やらは何十年間の時を経て雨になるらしい。中学の時理科の先生が言っていた。つまり私達が浴びる雨は、何十年前かの知らねえじいさんとばあさんの思い出みたいだ。そんな気はしないが、そうなんだろう。自分がいま流した涙も、いつかの雨になっているなんてとてもロマンチックだ。そしてこの歌詞も、そういった涙と雨について描かれている(はず)。

 

「雨粒にして降らすまででもない」はきっと涙について言っているのだろう。この言葉には、私的に二つの解釈がある。一つは臆病な涙。私の涙は雨となるに値するのか、という自虐的な涙。もう一つは、涙腺まで届かない涙。涙するまでもない悲しさ。

どちらともとれるし(きっと他にもあるだろう)、どちらともうなずける。二つの解釈に共通しているのは、いつか雨になるはずのこの涙が、未だに私の中で渦巻いている、ということだ。そしてそんな涙や感情を「持て余した僕の空はずっと霧雨」と表現している。これがとてもいいなと思う。

 

涙になるまでもない小さな悲しさや寂しさがいつも心の中にたくさんあって、いつ体を抜け出すかと待ちわびている。いざひたひたになって、飛び出そうとしても、私の涙はきっと涙になるにふさわしくない、下等なものだ。だから流すのもおこがましい。でもそうした負の感情は、きっとどこからか染み出していて、空にまで伝わり、目にも見えない小さな霧を降らす。

でも雨になることはない。

心を取り巻く、そんなちんけでみじめな気持ちがよく表現されていると思う。

 

自分の断片をまき散らし、応答はない

大学に入学してから新たにTwitterを始めた。おそらく毎日ツイートしている。Instagramもやっている。時たまストーリーを上げる。

 

時々無性に腹が立ってどちらもアンインストールする。その心は「どうして私の生活を人様に見せているのだろう」というのが大きい。SNSをやる上で重要なテーマだと思う。自分の生活なんて誰も興味なかろうに、どうして私をフォローする人がいて、ストーリーには既読がつくのか。そして、誰も興味がないことを知っていて、どうして私はツイートをし、ストーリーを上げるのか。すごく気持ち悪く感じるし、自分の中のぐずぐずに腐った所が見えて反吐が出る。それでもやる、SNS。何かとても不思議なことが起こっているのだと言わざるを得ない。

何故私は、あるいは私達は、SNSをやるのか。承認欲求やら、顕示欲やら何やら色々でてくるだろうが、この手の疑問にこういった言葉で答えるのは青臭くて嫌だし、何か違う気がする。

他者からの反応のため以外の、もっと本質的なものがあるはず。

 

ここでは『自分の断片をまき散らし、それを拾い集めるでもなく、孵化するのを待つのでもない』というSNSの不思議さだけ記しておく。

何かあったらまた書く。

赤い公園『夜の公園』の一節について

「『ちょっと出てきてくれないか』 話の中身はわかっている 誰にも見せない部屋着からちゃんとした部屋着に着替えている」

 

赤い公園『夜の公園』の一節、これすげえいいなと思う。

 

ある夜、曲の主人公は自分が片思いをしている相手に公園に呼ばれる。それも毎度のことで、目的は片思いの相手の恋模様についての相談である。曲を聴いてもらったら一層わかってもらえると思うが、とにかく主人公は叶わぬ恋に思いを馳せていると言っていい。

 

そんな主人公が、想い人に呼ばれて、「誰にも見せない部屋着からちゃんとした部屋着に着替えている」わけである。

好きな人に呼ばれているわけだから、少しでも自分をよく見せたい、洒落込みたいという心理がはたらくのは必然といえるだろう。しかし、夜中なのにパリッパリにめかしこんだ人間が現れたらどうも不自然である。ともかく、着古したでろんでろんのパジャマで行けるわけがない。みられても恥ずかしくない、それでいて少しでも自分が良く見えるように、でも不自然過ぎないシンプルな服装にしよう。

着ている服一枚で悶々とする主人公の姿が思い浮かぶ。行き過ぎた解釈かもしれないが、「ちゃんとした部屋着」に着替える際、本当は「誰にも見せない部屋着」、ありのままの自分を見せたいけれども、引かれるかもしれないからそんなこと到底できない、といった主人公の冷たくて苦いところすらも感じられる。

 

「誰にも見せない部屋着からちゃんとした部屋着に着替えている」

 

曲の序盤も序盤にこの一節を入れ込むところが、とてもテクニカル。

先に述べたように、この言葉には片思いの素朴な感情がやわらかに、しかし鮮烈に込められている。聴き手はこの一節の為に、曲が生みだす作品世界にぐっと引き込まれることになる。曲の主人公を自分と重ね合わせる、あるいは新たな人物を高い解像度で浮かび上がらせることが可能になる。経験したこともない恋愛感情がありありと現れてくる。曲を聴き終えた後、何故か寂しい気持ちになる。だからこの一節がすげえいいなと思うのだ。

 

 

赤い公園『夜の公園』を聴くと、自分の中の乙女解像度がギラギラと輝き、奮うのを感じる。ただ、高解像度の持ち腐れになってる感は否めない。