北極星に行こうとしている

北極星に行こうとしています。北極星に行こうとしているわけでは無いです。

内向的なクソ感情の受け皿

「雨粒にして降らすまででもないこの感情を 持て余した僕の空はずっと霧雨」

 

日食なつこ『vapor』の一節

ここ最近の私の脆弱なメルヘンメンタル(通称:サンリオ)を救ってくれる歌詞の一つ。

 

私達が流す雨やら汗やらは何十年間の時を経て雨になるらしい。中学の時理科の先生が言っていた。つまり私達が浴びる雨は、何十年前かの知らねえじいさんとばあさんの思い出みたいだ。そんな気はしないが、そうなんだろう。自分がいま流した涙も、いつかの雨になっているなんてとてもロマンチックだ。そしてこの歌詞も、そういった涙と雨について描かれている(はず)。

 

「雨粒にして降らすまででもない」はきっと涙について言っているのだろう。この言葉には、私的に二つの解釈がある。一つは臆病な涙。私の涙は雨となるに値するのか、という自虐的な涙。もう一つは、涙腺まで届かない涙。涙するまでもない悲しさ。

どちらともとれるし(きっと他にもあるだろう)、どちらともうなずける。二つの解釈に共通しているのは、いつか雨になるはずのこの涙が、未だに私の中で渦巻いている、ということだ。そしてそんな涙や感情を「持て余した僕の空はずっと霧雨」と表現している。これがとてもいいなと思う。

 

涙になるまでもない小さな悲しさや寂しさがいつも心の中にたくさんあって、いつ体を抜け出すかと待ちわびている。いざひたひたになって、飛び出そうとしても、私の涙はきっと涙になるにふさわしくない、下等なものだ。だから流すのもおこがましい。でもそうした負の感情は、きっとどこからか染み出していて、空にまで伝わり、目にも見えない小さな霧を降らす。

でも雨になることはない。

心を取り巻く、そんなちんけでみじめな気持ちがよく表現されていると思う。